今週の説教

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《今週の言葉》

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、ご覧ください』と言った。イエスは涙を流された。」(ヨハネ第1133-35節)

神は涙する

愛する友、ラザロ(第1111節)の葬儀に立ち会われた主イエスは、墓の前で「心に憤りを覚え、興奮して(馬が鼻を鳴らすようにして)、言われた」。主イエスの喉が鳴ったか鼻が鳴ったか、主イエスのお心が、音を立てた… とても激しく、動いておられる。死を見据えながら。そこで、主は涙を流された――。

人びとは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と口々に言った(36節)。その通り 福音書記者ヨハネが伝える、第11章のこの物語は、いつも、常に愛の物語、いや、出来事なのだ。まさしく、ここでは主イエスの愛が、涙を流している。それゆえにまた、憤りの心をも呼び起こしているのだと、言うことができよう。

 この事実が、私どもにとって、どんなに大きな慰めとなることだろうか――。私どもは、愛する者の、死の現実にぶち当たって、「ああ、主イエスがここにいてくださったならばこんなに悲しみを味わわなくて済んだのに…」。そう訴えずにおれない想いに誘われながら涙に暮れているときに、主イエスが同じところで涙を流していてくださるということを、想い起こすことがゆるされているのだから

 そして、この涙を流しておられる主イエスの愛が、激しく興奮して、音を立てるほどに興奮して、こころに、憤りを覚えていてくださる。もし、私どもの不信仰や愚かさに対する憤りであったとしても、やむを得ないと思う。しかし、さらに思う。このように、人びとの愚かさが現われてくるほどに、悲しみに引きずり込んでしまう死に対して、主イエスは憤りを覚えておられたのではないだろうか――。人びとにこんな悲しみのこころを呼び起こすほどに、そのこころを愚かにしてしまっている罪の力に対して、憤りを覚えておられたのではないだろうか――と。

 「かつて見えなかった人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか。」「生きている間なら目を開くこともできただろう。しかし死んでしまったらすべておしまいだ――。」そう人びとに言わせている、死の、想い。ガッシリした壁の前に立って、主イエスはこころに憤りを覚えておられる。激しく興奮しておられる。

 「どこに葬ったのか。」主は、そう尋ねておられる。尋ねるまでもなく、主イエスはすでに、愛する友ラザロを、見据えておられたに違いない。

 どこに葬ったのか――。しかしなぜ、そんなことをお聞きになったのだろう。わたくしは思う。人びとと共に、人びとに案内されながら、ハッキリその死と向かい合おうとしておられるからだと。人びとを捕らえている、死と向かい合おうとしておられる。そのために、案内を請いながら、ご自分で、マルタもマリアも引き連れるようにして、墓の前に立っていてくださるのだと

 併せて今日、ややもすると読み飛ばしてしまいそうな、小さなひと言も、私どもの胸を深く打つ(28節)。

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び――

 すると、マリアが、直ぐに起ち上がった… どうして起ち上がったのか――。マリアが、家にじぃっとしていると、マルタが急いで戻って来てマリアを呼び、「先生がいらしてあなたがお呼びです」と耳打ちした。ただ、マルタがマリアを呼んで、「早くいらっしゃい、そんなところでグズグズしていないで。イエス様がいらしたでしょう…」、そう言ったんじゃない。主イエスがあなたをお呼びです。主が、あなたを呼んでいてくださる――。

 この、ヨハネによる福音書はその初め、第1章からすでに、主イエスにお会いする人びとの物語、主イエスに人びとを紹介した人たちの物語なのだ。洗礼者ヨハネがすでに、自らの弟子たちに、「御覧なさい、あの方が、この世の罪を担い抜く神の小羊・救い主だ」、そう言って紹介したのであった(第1章29節)。マルタとマリア、そしてラザロが、どのように主イエスにお会いしたのか、それはわからない。何かのことで、ベタニアの村に主イエスをお迎えすれば必ず、宿を提供する程になっていた。そのように親しんでいた先生、主イエスが、あなたを呼んでおられる。

 マリアは、この主イエスの、呼び声、マルタの言葉を通じてであるけれども、いや、明らかに主イエスがマリアをお呼びになったに違いない。

 「どうしてお前だけなのか、マリアはどうしたのだ。マリアを呼んでいらっしゃい」。

 マリアは、マルタが伝えた主イエスの招きの言葉を聞いて、すぐに起ちあがって、主のもとへと向かった。「イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた」(30節)。そこまで、飛んで行ったに違いない。急に立ち上がって出て行くマリアを、墓に行くのだろう。もはや死が確定していた、悲しみがまた新たになった時であるために、泣きに行くのだろうと思っていたら、「わたしが復活であり命である」とマルタにおっしゃってくださった、主のもとに、急いで行ったのだ。そう、急いで…

 「わたしが復活であり命である

 マルタは、主イエスが自分に対して語られた言葉を、いつマリアに取り次いだのだろうか。それは分からない。もしかすると、主イエスがおられるところまで、急いで行くマリアと、マルタも一緒に走ったかもしれない。そして走りながら、「さっき主イエスに、こんなことを言われた。そしてわたしは主に対する信仰を言い表した、あなたもそう言いなさい」、そう言ったかもしれない。

 「先生がいらして、あなたをお呼びです」。大切なのは、マルタがマリアに伝えたこの言葉。そう、私どもが、互いになすべき務めはこれだ。涙に暮れている人の耳元で、痛む人の傍らで、小さな声でしかし、ハッキリと告げるのだ。「いのちそのもの、およみがえりの主があなたを呼んでおられる」と――。

 これに勝る、慰めは、ほかにない。