今週の説教

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《今週の言葉》


 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。


呼ばれて、従う


 神の国は近づいた――。
 
 愛する兄弟姉妹の皆さん 今朝、主イエスは、わたしたちにこう呼びかけ、語りかけ、宣言してくださいます。「神の国は近づいた」。

 「近づいた」というのは、「もうすでに来てしまって、今、ここにある」という意味です。これ文法上の問題ですが、「近づいた」に、ここでは完了形が用いられています。主イエスは確信に満ちておっしゃるのです。「神の国はもう来てしまった。もうここにある」。

 神の国――。これは、“神のご支配”ということでもあります。神の、愛によるご支配のことです。主イエスは確かに、いくつもの譬え話において、神の国がやって来ることを、将来のこととして語っておられます。将来、必ず起こる世の終わりには、神のご支配によって救いの完成がなされると。

 けれども、今、わたしたちが主イエスの宣言、この御言葉に全霊を尽くして聴くならば、将来到来する神の国が、すでに来てしまっている。現臨している。主イエスが居られるところ、主イエスが語りかけてくださるところ、ここに神の国が既に来ているのです。神の、愛によるご支配がすでに始まっているのです。

 神の国は到来しました。わたしたちが神の国へ一歩ずつ近づいているのではありません。神の国を自分たちの方へ引き寄せることができるわけでも決してありません。

 このようにイメージすることができるでしょう。神の国を待ち望んでいるわたしたちは、岸壁(がんぺき)で船の到着を待っている人に似ています。岸壁のギリギリのところに立って、船を待っているのですが、自分から船に近づいているわけではありません。大声で呼びかける。身振り手振りで合図する。焦がれる思いで、船を、船に乗っている人を待っています。だからといって、船の歩みを一ミリでも早く出来るわけではありません。ただひたすらに待ち、わたしたちは一ミリも近づいていません。船の方が、こちらへと近づいてきます。

 神の国が到来しました。神の御子がわたしたちの所にまで来てくださった。わたしたちの側の行為とは全く関係なく! しかも、福音という喜ばしいおとずれ、喜びの知らせを携えて、わたしたちのところにまで来てくださった。そしてわたしたちをも、御自身の喜びに与らせてくださる。喜びの知らせとは、神の喜びであり、わたしたちの喜びでもあります。
 
 神の国が、喜びが今、ここに到来した――。そしてすぐに続けて主は「悔い改めて福音を信じなさい」。こうおっしゃった。ここで、「悔い改めなさい」と訳された文字は――こう訳してもひとつも間違いではありませんけれども――もともとの字は「立ち帰る」という意味です。「帰って来い…」っていう言葉です。主イエスは、私どもに向かって叫ばれるのです。

 神のご支配はもう始まっている… だから、私の告げる福音のなかに、喜びのなかに帰って来い…
 
 主イエスへと立ち帰ること、悔い改めることは、わたしたち人間の業ではありません。わたしたちは悔い改めなければならないのではありません。パプテスマのヨハネは、「神の赦しを得るためには、あなたは神に立ち返らなければならない」と語りました。そうであれば悔い改めは、喜びではなく、わたしたちに負わされた重荷となってしまいます。

 パプテスマのヨハネも、主イエスと同じように人々に悔い改めを求めました。その点では共通しています。自分自身だけを見つめ、自分自身の中にうずくまっている所から向きを変えて、神に立ち帰ることを求めました。しかし、悔い改めの位置づけが決定的に違っているのです。

 主イエスは、「あなたがたは悔い改めなければならない」とは言われません。

 わたしがあなたのもとに来て、あなたの罪を贖(あがな)ったのだから、あなたは神に立ち帰って良い。神の、わたしの喜びの中に入ってしまったらよい――。

 こう語りかけてくださるのです。

 立ち帰るためには、悔い改めるのです。しかし、悔い改めたうえで、帰って行くわけではない。この主イエスのもとに帰って行くことと、福音を、喜びの知らせを信じて受け入れることとはひとつのことです。
 
 帰って来い…。わたしのもとに帰って来い…

 わたしたちは、何の功(こう)もないままに、このお方のもとに立ち帰ることが赦されています。このわたしのこころもからだも、丸ごと向きを変えて、このお方のもとに帰って行くことは、喜びなのです。神に立ち帰ること――それは、わたしたちの喜びである以上に、神の喜び、主イエス御自身の喜びにほかなりません。

 「福音を信じなさい」という言葉は、福音の中で信じなさいということです。主イエスが語りかけてくださる喜ばしきおとずれ・福音の中に身を置きなさい、主イエスのお語りになる言葉の中で生きてゆきなさい、ということに他なりません。

 その具体的な現れが、日課の後半に登場する四人の漁師たちです。彼らは、主イエスの福音の中に、神の喜びの中に、主イエスのまなざしの中に入れられた、最初の弟子でありました。

 主イエスは、「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった」。

 主イエスは「ご覧になった」――。この方は、漁師たちに目を留め、その眼差しの中に、彼らを包み込んでおしまいになった。当時の師弟関係は、弟子が自ら志願し、師を選ぶのが常でした。しかしここでは、師である主イエスが弟子を選んでいます。まったく逆転した関係が生じています。弟子たちが主イエスに目を留め、自ら志願したのではありません。まったく一方的に、主イエスが彼らをご覧になり、近づいて行かれたのです。

 主は、ご覧になった――。これは「深く御覧になる」という字が使われています。じぃっと御覧になる。――そういう文字です。

 眼差しにもいろいろあります。受け入れる眼差しがあり、拒絶する眼差しがあります。ほっとさせたり、息を詰まらせたりする。愛のこもった眼差しも、人を裁くような眼差しもある。人を活き活きと生かす眼差しがあれば、殺してしまうような眼差しです。人からどのような眼差しを向けられるかによって、その人の状態も決まります。“目はこころの窓”と言われるのはほんとうだな、と思う。どう見られるかによってその人に対する態度が分かります。

 神は人間を、どんなときも愛をもって見ておられます。ただ、ふと見る、ひょいとご覧になったというようなことではなくて、じぃっと見ておられる。鋭く、しかしやわらかな愛の眼差しをもって、深く見つめておられる。

 わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛している。(イザ43・4)

ついに今、わたしたちは主イエスのうちに神の眼差しと出会い、わたしたちが神からどのように見られているかを知らされるのです。

 主イエスの愛のまなざしの中に入れられ、覚えられたことによって、漁師たちはまったく新しい生を生きる者とされました。福音・喜ばしいおとずれの中で生き、生かされる者となったのです。主イエスは、彼らに向かって言われます。

 わたしについておいで…。人間の漁師に、わたしがしよう。

 わたしたちの聖書では、「人間をとる漁師」となっていますけれども、実はこれは意訳なのです。 ここで“とる”という言葉は、もとのギリシャ語原文にはありません。直訳すると、「人間の漁師」です。しかしそれでは意味が通り辛いと思ったからのでしょう。原文はない“とる”という動詞を補ったのです。

 主イエスが言われた「人間の漁師」とは、「人間である漁師」ということです。

 わたしについておいで… あなたたちを人間である漁師にしよう…

 弟子とされた彼らは、それまで「漁師である人間」だと思い込んでいたのです。彼らはこれまで、自らの価値を「漁師である」ということに置いていました。漁師という職業において、自分は人間であると認めていたということです。

 言うまでもなく、職業は人間ではありません。あくまでも、人間が職業を持つのです。けれども――わたしは、これほんとうに困難だと思いますけれども――当時は漁師の家に生まれれば漁師でしかない。罪人(徴税人etc)の家に生まれれば罪人でしかない、病人の家に生まれたからあなたも病人、という価値観の中で社会は動いていました。生まれとか職業が人間を規定し、縛りつけていたのです。

 そのような中にあって、改めて主イエスは問われます。“人間とは何か――”

 もし、わたしたちが自分の職業によって価値あるものとして生きるなら、職業が主体になってしまいます。あるいは、生き甲斐が主体になってしまうのです。それでは、わたしたちは職業や生き甲斐によって支配され・規定された人間となってしまいます。

 主イエスは言われるのです。

 あなたは人間だ――。神に愛され、神に造られた存在としての人間なのだ。ここに立って生きなさい。あなたはかけがえのない神の作品であるのだから。

 欠け多き罪人であるわたしたちは、ただの土の器に過ぎません。何かが“出来る”から価値があるのではありません。いかなる状態においても、神が愛ゆえに、御自身にかたどって造り給うたわたしであることを生きなさい。そのあなたを神は生かし、用いてくださるのだから――。

 わたしたちが自分の状態や生き甲斐や職業において自らを認めるのではない。ただ、主イエスのまなざしと、神の愛のうちに生かされ、受け容れられてある自分を認めること。それこそが人間である漁師ということに他なりません。

 それゆえに、シモンは、アンデレは、ヤコブは、ヨハネは「すぐに」従ったのです。熟慮して従ったのではありません。ただ「すぐに」、つまり「直ちに」――従ったのでした。

 確かに、物事に熟慮を重ねることは必要でしょう。状況を慎重に、周囲の動静を見極めて、石橋を叩いて確認してから渡ることを判断する――あるいは渡らないで壊してしまう――ということも時にはあります。しかし、こと神に従うという一点においてだけは、これは通用しません。人は、熟慮すると神に従えなくなってしまうのです。「土地を買いましたから、今は従えません。」と言い、「子どもが生まれたばかりですから、今は従えません。」と言ってしまう。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」とも主は言われました。

 熟慮することによって、神の呼びかけを自分の価値によって判断し、自分にとって都合がよいと思われることしか選択しなくなってしまう。それがわたしたちです。しかしそれでは、“神に愛され・造られた”という恵みによってではなく、自分の状態や職業や地位や財産によって人間であることを確認することになってしまう。
神の目にわたしがどれほど貴いものと映っているかを気づくなら、わたしはたえず神から呼びかけられていると信じることでしょう。主は呼びかけてくださる。

 わたしについておいで…

 わたしたちは、日々、さまざまな出来事を味わいながら生きている。しかし、神がご支配くださっています。主が、わたしたちの世界と共にいてくださる。主は、わたしたちの前を歩き、喜びの知らせを更に進めようとされている。わたしたちは、この主の背中を見て、この方のうしろをついていけばよい。あなたが、小さな、シモンになることができる。あなたが、小さな、アンデレになることができるのです。

 これ以上の喜びがあるのだろうかと思う。そして この喜びを、わたしたちから取り去るものはありません。

 祈りを致します。

 このような、わたしたちに、深く目に留めていてくだいますことを、このような私どもをも選び、私どもの目の前まで歩いて来てくださいますことを、しかもなお、「わたしについて来なさい」との御声を、わたしたちに響かせてくださいますことを、こころより感謝を致します。その主イエスの後を、ついて行きたいと願います。どうぞゆっくり、ゆっくりと主イエスと共に歩むことのできますように。この、一人ひとりと共に、主は御約束どおりいてくださいますように。その人生の前を歩んでくださいますように。

 主イエス・キリストによってお願い致します。