今週の説教

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《今週の言葉》

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。


祝福を聴き続けて歩む教会


 〈福音書〉というのは、言葉の響きからもその意味を読み取ることができますように、〈喜びの知らせ〉というのが原意です。このルカによる福音書の最初のところに“テオフィロ”という名が出てきました。どういう人であったかは分かりません。キリストの教会に関心を持ちながら、まだ洗礼を受けてはいない、いわゆる求道者ではなかったかとも言われます。

 「テオフィロさま、あなたにこの福音書を献呈いたします。ぜひ読んでいただきたいのです。この喜びの知らせを…」。

 そこでルカがここまで記してきたことは、ひたすらに“主イエス”というひとりのお方のことでありました。

 「テオフィロさま、あなたにイエスというお方を紹介したいのです」。

 そのような言葉で始まっていたこの福音書の結びの言葉(第24章53節)は、

 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた――。

 ここで少しひねくれた学者は、首をひねり、批判的なことを言ってみせます。

 主イエス物語の結びならば、主イエスご自身のことを書いて終わればよいのに、弟子たちの話をもって結びとするというのは、文章の書き方としてうまくない。

 しかしわたしは、むしろこのようなところにルカの感謝の思いが込められているように思います。

 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた――。

 喜びの群れ、賛美の集団――。すなわち教会がここにある このような群れを造るための、主のみわざであったのです。 今、ルカによる福音書の結びの言葉と申しましたけれども、ほんとうは不正確な言い方です。ルカはこの“続編”として使徒言行録を書きました。この喜びと賛美の群れが、なおどのような歴史を造り始めたかを丁寧に書きます。その使徒言行録の最初にも、テオフィロの名前が出てきます。ルカがテオフィロに伝えたかったことが、もうひとつあったということでしょう。

 テオフィロさま、わたしはあなたに、キリストの教会を紹介したいのです。ここに喜びの集団があります。賛美の群れが生きています。

 ここに、教会の使命というか、教会の基本的なアイデンティティが明らかにされていると思います。

 皆さんは、礼拝でいったい何をし、何を願っているのか――。いろんなことをしているでしょう。私どもの礼拝の中で、説教は大きな要ですけれども、しかし考えてみると、礼拝では説教を聴くだけではありません。わたしたちの教会はまだそこまではできていませんけれど――最近はインターネットでも毎週の説教を音声で聴くことができるようになりました。とてもありがたいことです。

 とりわけ、今、全世界的な危急のただ中において、互いのいのちを守るために、人と人との距離を保つことに努めている私どもは、いつものようなかたちでは礼拝に与ることができておりません。わがルーテル教会においても、できる準備が整っているところは牧師・説教者が動画を配信し、賛美歌を歌い、画面の向こう側の主の愛する弟子たちが(皆さんお一人おひとりのことです)精一杯、できる仕方で、今置かれた場で、共に礼拝をし祈りを献げておられます。

 今、私どもが願うのは、何と言っても、ここに来て、この天王寺教会で、信仰の仲間たちと一緒に礼拝をしたいということです。――もちろん、この危急の事態にないときから、体調がどうしてもすぐれないために、あるいは年を重ねて、強く願いながらもこの場所まで来ることが難しい方がおられます。その方たちには、わたしたち一人、ひとりがこころを砕いて、み言葉を届ける努力をしなければなりませんけれども――願わくは一刻も早く、一緒に礼拝をしたいのだ…

 天王寺教会に来ると、そこへ行くと、何があるのか。神が目に見えるわけではありません。キリストの像を礼拝堂に飾るようなことも、私どもは厳しく退けております。そんなことをする必要はない。なぜか。そこには皆さんがいるからです。

 キリストを伏し拝み、喜びに満たされて、神をほめたたえている集団です。 はじめて礼拝堂に入ってきたひとは、それを見て、いぶかるかもしれない。いったい、何をしているんだろう。なぜこの人たちはうれしそうに讃美歌を歌っているんだろう……。わたしは、やはり、教会は、一般の人びとにとっては、十分、不思議な集団だと思います。日曜日の午前中という貴重な時間を毎週この礼拝のために費やすということが、既に不思議でならないはずです。

 いったいこの人たちは何だろう。何がうれしくて、毎週ここに集まっているんだろう……。

 まさに、このような喜びの集団、賛美の集団を造るために、主イエス・キリストのすべてのみわざがあったのです。ルカによる福音書が最後の最後で、こころを込めて伝えるのは、そのことだと思うのです。

 ルカによる福音書が、最後に伝えていることは、お甦りになった主イエスが天に上げられたということです。この福音書の続きの使徒言行録によれば、主イエスは復活ののち40日間を弟子たちと一緒に過ごされ、そののち天に上げられたと言われます。それを既に福音書の最後でも、簡潔に記しているのです。 40日間、復活の主が弟子たちと共にいてくださいました。それは、あとにも先にもない、特別な時間であったと思います。弟子たちは、主イエスと共に過ごしながら、さまざまなことを語り合ったと思います。けれども遂に、主イエスは天に上げられた。これも使徒言行録の記述によれば、そのことが起こったのは〈山の上〉であったと言います。

 おそらく主イエスが弟子たちに呼びかけて、「一緒にあの山に登ろう」と言われたのでしょう。けれども、彼らが山を下りるときには、もう主のお姿はなかったのです。 考えてみればさびしいことです。

 それだけに興味深いのは52節です。そこでこう言います。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り」――

 普通に考えれば、別れは悲しみをもたらすものです。もう地上では二度と会うことができないとなれば、なおさらです。けれどもこの弟子たちは、主イエスと遂に別れなければならなかったとき、喜びに溢れたというのです。もし何も知らない人が山の下で待っていたとしたら、「あれ、山の上で何かあったんですか」ということになったと思います。いったい何があったのでしょうか。 ルカはここで、「祝福」という言葉を繰り返します。50節、そして51節です。

 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

 弟子たちは、山の上で、主イエスの祝福を受けたのです。「手を上げて祝福された」。

 毎週礼拝の最後に、牧師が手を上げて祝福を告げるのは、この主イエスのしぐさに由来します。わたしに皆さんを祝福する力があるわけではない。祝福してくださるのは主イエスです。私は、その事実を告げるだけです。「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ……

 ――という書き方にも、ルカの深い思いが込められているようです。主は祝福の手を下ろすことなく、祝福の姿のままで天に上げられたのです。ここまでひたすらに主イエスのことを紹介するために、ルカは福音書を書いてきました。そのルカが最後に紹介する主イエスのお姿とは、今も祝福の手を下ろすことのない主イエスのお姿であったのです。「テオフィロさま、あなたにこのお方を紹介したいのです」。

 「祝福する」と訳されている言葉は、元の言葉の成り立ちをそのまま生かして訳し直すと、「よい言葉を語る」という意味の言葉です。主イエスが、つまり神が、私どもによい言葉を語ってくださる。神が私どもを肯定してくださると言い換えてもよいと思います。「あなたはよい」。その言葉が、弟子たちの顔を喜びで輝かせました。

 神の祝福ということを考えるときに、何と言ってもまず思い起こさなければならないのは、創世記の第1章であると思います。神が世界とそこにあるすべてのものをお造りになったことを記しながら、印象深く繰り返されることは、「神はそれを良しとされた」と言われることです。「神は光を見て、良しとされた」。草を造り、木を造り、「神はこれを見て、良しとされた」。その最後には、改めてお造りになったすべてのものをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と記されます。祝福とは、そういうことです。「ああ、実にすばらしい。これを造ってよかった。この人を造ってよかった…」。この神の祝福のまなざしのなかで、私どもはこの世界を見、自分自身を肯定することができるのです。この神の祝福を知ってさえいれば、もう自分を否定する必要はない。自ら死を願う必要もない。いや、もしも、もし自ら命を絶つようなことが起こったとしても、それでもなお揺らぐことのない神の祝福を、私どもは知っているのです。 私どもが日曜日に教会に集まる意味は、まずここにある そうわたしは思うのです。

 創世記の第2章の最初のところでは、神が7日目に仕事をお休みになり、その安息の日を祝福なさったと記されます。ご自分のお造りになった世界を、こころから愛でられたと思うのです。それが安息日です。キリスト教会はこの7日目の安息日を、主の復活の日である日曜日に移しましたけれども、基本的な意味において変わりはありません。私どもが日曜日にここに集まるのは、神の祝福を知るためです。「この人を造ってよかった…」。神がそう断言してくださっていることを知るのです。その確信のないところに、ほんとうの安息もありません。

 53節の最後に、「神をほめたたえていた」とあります。興味深いことに、この「ほめたたえる」という言葉も、原文では50節、51節の「祝福する」と同じ言葉です。つまり、「よい言葉を語る」ということです。主が、私どもによい言葉を語ってくださるなら、それは私どもを祝福してくださるということになるでしょう。逆に私どもが神に向かってよい言葉を語れば、それは神を「ほめたたえる」ということになります。

 神さま、わたしの存在を肯定してくださってありがとうございます。わたしも、わたし自身の存在を喜んで受け入れます。

 それが、そのまま神に対する賛美の言葉になります。 私どもがここから出て、帰って行く生活には、さまざまなことがあると思います。悲しみも不安もある。腹を立てたくなることもある。神に文句を言いたくなるようなことだってあるかもしれない。けれども私どもは、根本的なところで、神の祝福を知っているのです。そして、神が主イエスを死者の中から復活させてくださったとき、創世記第1章の神の祝福に、最終的な確証が与えられました。死を越える祝福です。

 ――その主の御手を今も確かに感じながら、私どもも、神に向かってよい言葉を語り続ける。このような集団を造るための、主イエスのみわざであったのです。

 "エルンスト・バルラハ”という彫刻家の《再会》という作品があります。甦られた主と、弟子トマスとの再会です。トマスという弟子が、他の弟子たちが復活の主イエスに会ったと言っても、「いや、俺は信じない。あの方の手の釘の跡を見なければ、その釘跡に自分の指を入れてみなければ、決して信じない」と言い張って聞かない。ところがそのトマスの前に、他の弟子たちもいるところで、主イエスが現れてくださった。 バルラハは、そのトマスの像を、自画像として刻んだのではないかと言われます。明らかに老人の像です。主イエスはしっかりと立っておられます。その主イエスにすがりつくようにして、腰も膝も弱りきったような老人トマスが、そのお顔を見上げています。そのトマスの脇の下を、主の両腕がしっかりと支えています。もし主イエスがその両手を離したら、たちまちトマスは崩れ落ちてしまうのではないかと思います。主イエスに支えられているトマスの顔は、単純な再会の喜びに満たされてはおりません。まだ不安と疑いが残っているようです。けれどもそのトマスを、主が支えておられる。

 わたしは写真でしか見たことはないのですが、何度見ても、なんだか、泣きたくなってくるような作品です。「祝福」とはこういうことなのかと思わされます。これが、わたしなのだ。いや、もっと言えば、これが教会なのだ…

 この作品について、ある説教者の言葉によって改めて知ったことは、このトマスを両腕で支えておられる主イエスの足には、なお太い釘が刺さったままであるということです。このトマスを祝福するために。このトマスが、不安と疑いに崩れてしまわないために。そのために主イエスはしかし、その手足に釘を打たれなければなりませんでした。私どもに代わって、神の呪いを受けてくださった主イエス――。

 そのお方を通して、私どもにも神の祝福が及びました。主が両手を上げて弟子たちを祝福してくださったとルカが記す、その祝福のみ手もまた、十字架の傷が残る手でしかなかったのです。このお方に、私どもは祝福されている。支えられている。今ここにも――たとえ顔と顔とをあわせてはいなくとも――主の祝福を聴き続けて歩む群れが造られています。そのような一人、ひとりで満たされている教会の存在そのものが、何にもまさる、主の祝福の証しとなるのです。

 祈りを致します。

 主イエス・キリストの父なる御神。私どもにまことに豊かな、〈よい言葉〉が与えられておりますことをこころから感謝を致します。主の祝福があります。いのちがあります。愛があります。その美しい、よい言葉を、私どもが覆い隠したり、消してしまうようなことがありませんように。むしろその中で造り変えられ、聖められる体験をすることができますように。私どもの教会を、まことの〈よい言葉〉の満ちるところとしてください。絶えず宮にいて、神をほめたたえることを大きな喜びとする日々の生活を始めることができますように。

 主のみ名によって祈り願います。