今週の説教

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《今週の言葉》


 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。


小さな十字架を背負って


2021年2月28日 四旬節第2主日
福音書日課 マルコによる福音書
第8章31〜38節(日本聖書協会 『聖書』 新共同訳 77ページ)
讃美歌21 303 507

 
 マルコによる福音書を、聴き続けていますけれども、第8章、27節以下です。弟子たちと主イエスとの修養会です。弟子たちと、主イエスとだけで、寝泊まりを共にする。食事も一緒にした。しかもそこで、忘れがたい出来事が次々と起こります。場所はフィリポ・カイサリア。水が豊かであり、緑の覆い茂った土地です。保養地です。

 ペトロが、弟子たちを代表しまして、「あなたは、メシアです」と主イエスに向かって告白したのは、この時でした。「メシア」。これは、キリストという文字です。イエスがキリストである、救い主でいてくださる。その名をもって、「イエス・キリスト」と初めて呼んだのは、この時でした。さらに、ペトロが、みんなの前で主イエスに叱られたのもこの時です。

 サタン、引き下がれ…!

 ペトロなどは、その主イエスのお顔を忘れなかったに違いない。さらには、第9章の2節以下、山上の変貌(変容)と呼ばれる出来事――。高い山の上で、主イエスのお姿が変えられるのを間近に目撃することができたのもこの時でした。一週間にも及ぶ修養会です。

 英語で修養会のことを「リトリート」と呼びます。「リトリート」。「退却」という意味です。軍隊の言葉だそうです。一所懸命戦っています。しかし戦っているうちに、疲れがくる。一時退却を致します。そして舞台を整える。主イエスはここで、単にお休みになったのではない。弟子たちを教育され、舞台を整えられたのです。いよいよここから、ほんとうに大切な旅路が始まる。エルサレムへと向かう旅路です。十字架へとはっきり向かう旅路が始まる。その前に、およそ七日に及ぶ、修養会を開かれたのです。

 そのとき、何よりも、修養会の思い出として弟子たちが忘れませんでしたことは、第8章31節以下に記されている主イエスのお言葉です。

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

 人の子――主イエスご自身のことです。主イエスご自身がやがて必ず、多くの苦しみを受け、排斥され、殺され、3日後に復活なさると、お語りになった。マルコは、そう記しました後で「しかもそのことをはっきりとお話しになった」と書き加えました。はっきりとお話しになった、と付けた。

 マルコ福音書の文体というのは少し不思議なところがあります。どうしてかと申しますと、これ、マルコというのはあんまりギリシャ語がどうも上手じゃないのです。もとの文章を読んでみますと、なんだかぶつぶつぶつぶつ切れている印象がある。というのは、マルコが多く用いる文字は “kai”という文字なのです。“kai”。英語で言ったら “and”です。“そして”っていう字です。今日共に聴いている第8章31節以下この“kai”“and”という文字がたくさん出てくる。「それからイエスは」この「それから」というのも“kai”です。「しかもそのことをはっきりお話になった」これも、“kai”。“そして”です。
「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」これも、“kai”。“そして”。

 ぶつぶつぶつぶつ切れている。だから、新共同訳を訳しだしたひとは、これがどれも「そして、そして、そして」というふうには訳さなかった。美しい日本語ではないからです。「それから」と訳したり、「しかも」と訳したり「すると」と訳す。けれども、たどたどしい、素朴なギリシャ語の中に、ほんとうにそのときの情景が、浮かび上がるようです。

 そして、イエスは、ご自分の十字架への道行きをはっきりと語る。そして、その主イエスを慌ててわきへと連れ出し、ペトロはいさめ始めた。そして、弟子たちを見渡しながら、彼らにわかるように弟子たちの目の前でペトロを主イエスはペトロを叱りつける――。

 さらに、34節もそして(それから)、と始まる。
 
 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。

 わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 十字架を負う。主イエスのように――。そして主イエスに従う。

 弟子たちはこの、主イエスの言葉を、そのときの主イエスのお顔と、一緒にしながら、忘れなかったに違いない。しかもここで主イエスは、そして、「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」と書いてある。ここにはマルコのこころがあります。弟子たちだけを呼んで、お語りになったのではない。わざわざ群衆を呼んでお語りになったのです。弟子たちに限ったことではない――。これは、わたくしたちにもそのまま主イエスが語りかけておられるということです。あなたに、主がお語りになる。

 あなたは、わたしの後に従ってきたいと願っているね…だから、今日もここに集ったんだろう。今日も、動画配信で礼拝に加わるために、こころを整えて、パソコンでインターネットに繋いでいるんだろう…

 もしも、わたしの後についてきたいのならば、自分を棄てなさい。自分の十字架を背負って、そのあとに着いてきなさい。わたしがこれから十字架へと歩む、その後についてきなさい。

 主はわたしに問うている。そして、あなたに問うています。

 わたしの後に従いたいと願っているね――。ならば、まずしなければならないことがある。自分を棄て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい――

 けれどもわたしたちはそういう言葉に耳をふさぐ。できることなら聞きたくない言葉です。この後、主イエスはたとえば、「命を失う」とか、そういうこの…明らかに、死を、匂わせる言葉をたくさん語り始めます。

 自分を棄ててついていく。そんなことできない。わたくしたちが神さまに願うならいいのです。わたしたちの心の中には、不安があります。悲しみがある。それをいやしてくださるイエスさまなら来てほしい。神さまに来てほしい。イエスさまの方に来てほしい。けれども、この時主イエスは逆のことをおっしゃるのです。

 わたしについてこい。あなたについてきてほしい…。

 その修養会の席で、さすがにペトロは動揺したようです。主イエスがあからさまに、ご自分の苦しみ、そして甦りについて語り始められたときに、ペトロはいったいどうしたのか。「ペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めた」と書いてある。そんなこと言っちゃ困る… とペトロは言ったのです。しかも、「わきへお連れしていさめ始めた」。

 脇へ呼ぶ――これ教師の態度です。先生になっている。ペトロはいまここでイエスさまの先生になっている。イエスさまを脇へ呼んだんです。「イエスさまちょっと来てください…」。しかもここで「いさめる」と訳してありますけれどもこの文字は、「叱る」という文字です。このあと主イエスは逆に、ペトロを叱って言われます。「サタンよ引き下がれ…」それとおんなじ言葉が使われている。さすがに新共同訳を訳した方々は、「ペトロがイエスさまを叱った」とは、この…訳しにくかったんでしょう。けれどもほんとうはそのまんま訳して構わない。

 ペトロは、イエスをわきへお連れして叱りつけた。

 イエスさまどうかことおっしゃらないでください。あなたがわたしの悩みを、苦しみを解決してくださる方ならばいいんです。それがわたしの願っているメシアの姿です、救い主の姿です。ところがその、ペトロに対しまして、イエスさま何とおっしゃったか。おそらくペトロよりもずっと大きな声で叱りつけられた。

 サタン、引き下がれ…

 それまで一度も聞いたことのないような主イエスの大声が響くのです。

 サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。

 しかし主エスは、「引き下がれ」とおっしゃいました。「向こうへ行け、あっちへ行け」とおっしゃったのではない。「引き下がれ」。「後ろに回れ」って言葉です。

ペトロ、お前はわたしの前に立つな。後ろに回れ… ペトロ、まるで今のおまえは、荒野でわたしを誘惑したサタンのようだ。あの時サタンは、石をパンに変えろとわたしを誘惑した。そうすればみんな信じる。そういうメシアを待っている――。けれども、おまえがわたしの、救い主として歩む道を指示するな。後ろに回れ…

 わたしの後についてこい――。

 わたしが、神学校で学び始めましたとき、いまはもう第一線を退かれたわたしの恩師が、わたしと会うごとに、たびたびわたしに注意し続けられたことがあります。その先生は、いつもニコニコやさしい方でしたけれども、どうもそのときは、何かわたしに対してお感じになることがあったのでしょう。ずいぶん厳しいお顔で注意なさった。

 神ア君、神学校に入ったらね、本に記されていることはすべて正しいと思って読みなさい。

 その恩師は、どうもわたしに、生意気なところを見てとられたんでしょう。学生というのは、特にわたしは時々、本を生意気な読み方をしていたのかもしれません。自分ですべては分かったような気がして、この人はこう、あの人はこう――。簡単に批判して片付けてしまっていた。しかし、そこに記されていることが全部ほんとうだと思って読んでご覧なさい――と。

 あるひとが、こういうことを言いました。

 ほんとうにものがわかる、ほんとうに本がわかるというとき、それは、自分が変わったときだ――。

 なるほどと思う。生意気な読み方をしている限り自分は変わらないのです。しかし、ほんとうにその本の前に頭を垂れて、静かにそこから響く声を聞く。そうすると、自分のものの見方が変わらざるを得ない。わたしたちは、時々、自分が変わらなければならないような、わかり方を拒否いたします。

 たとえばこういうことがある。この頃は、心理療法に基づいて、子どもの成長・発達に寄り添っていこうとする働きが盛んです。わたしも幼稚園の園長を兼務しています。そこでは、心理療法の専門家の先生と共に、教師たちみんなで一所懸命、さまざまな園児のことを話し合う。何とかして子どもたちの育ちを支え、少しでも導いていきたい、と願っているからです。

 “あの子はどうしてこういう行動をするんだろうね…もしかすると、父親がああだから、母親がああだから”と、家庭環境にその子どもたちの生い立ちを探るのです。この子の行動の背景にあるのはこういうことだから…と心理分析をする。わたくし自身もその中に加わりながら、とても学びになるし、有意義だと思いながら…しかし同時に、これはよくよく自覚をし、気をつけていないとたいへん危険なことだなと、時に思う。

 わたくしが牧師として向き合ってきた方々、仲間の中にも、あるいはあの人は心の病。あれは統合失調症だ、躁鬱病だ、人格障害だ。いろんな言葉が、名前が付く。しかし、そこで片付いてしまっては何にもならない いろんな名前を付けるだけ付けておいてちっともこちらが変わらないままであってはいけない。それで終わっちゃいけない。ほんとうにその相手を愛そうと思うならば、相手を知ったときにわたしたちは戸惑うはずです。痛むはずです。

 目の前で、なかなか、うまくいかない子ども、うまくいかないがゆえに、友達ともさらにうまくいかず、さらに屈折していく子どもを見ながら、こちらの無力に佇まざるを得ない――。祈らざるを得ない。

 けれども私どもはそういう知り方を時々拒否する。この時主イエスはペトロのことを“サタン”と呼びました。この時ペトロは明らかに、自分が、変わるような、自分が変わらざるを得ないような、主イエスの知り方を拒否したのです。“あなたはメシアです”とペトロは言った。しかしそのときに、自分の願望を叶えてくれる、そういうメシア、自分の痛みを取り除いてくれるメシア、けれども主イエスは、そのペトロに向かって“サタン…”と呼び、後ろに回れと命じました。後ろに回るときわたしたちはわかる。主イエスの後ろに回るときに初めて自分を知る。自分が変わらざるを得ない存在であるということです。そのとき、わたしたちは自分そのものを一度否定せざるを得ない。

 主イエスはおっしゃいました。

 わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 わたしたちが負わなければいけない十字架があるのです。それを放り投げて主イエスに従うことはできない。じゃあいったい十字架とは何か。どうしてわたしたちが、ここで、こころ揺らいでしまうか。それは、どうもわたしたちが大きな誤解をしているからです。わたしたちが、主イエスのまねをして、人のために人類の救いのために死ぬ。そのような、大きな十字架を担わなければならない。そんなことわたしにはできない。そういうふうに思う。――けれども、これとっても大切なことは、主イエスはそんな大きな十字架をわたしたちに負うことを願ってはおられないということです。わたしたちに、人類を救うことはできません。それができるのは主イエスだけです。わたしたちに、世界を変えることはできません。それを、おできになるのは神さまだけです。

 ここで主イエスが言われる十字架というのは、あっちにあるこっちにあると言って探し回らなければならないものではりません。わたしたちが主イエスの後についていくとき、人を、愛しながら生きていくとき、そのとき私わたしたちは十字架を負う。夫が妻を、妻が夫を愛するとき、ひとりの友人を愛するとき、親を愛するとき、仕事上の仲間を愛するとき、わたしたちの中に痛みが生まれる――。

 人を愛するときに、わたしたちの中でサタンが囁くのです。「こいつを、わたしのために利用してやれ――。」そうしていつのまにか自分は変わらないでおいて相手が変わることばかりを要求してしまう。人を、愛する、神を、愛する、主イエス・キリストを愛する――。それは、わたしたちが変わることです。小さな痛みを担いながら、変わらざるを得ないということです。そのときにほんとうの豊かさが生まれる。

 わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 小さなそこに、十字架がある。けれどもそれはどんなに豊かな歩みだろうかと思う。主イエスと共に、愛の、旅路へと、神さまはわたしたちを誘っていてくださいます。

 祈りを致します。

 人の前に立ち、人に変わることを強いるわたしたちをゆるしてください。主イエスの前に立ち、主イエスを追い越しては、こころ苛立たせるわたしたちをあわれんでください。どうぞ、主、イエスのように、わたしたちも、身近なひとりの人を、愛することができますように――。相手に変わることを、求めるよりも、自分が変わることを求めて歩むことができますように。

 主イエス・キリストによって祈ります。