今週の説教

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《今週の言葉》

 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
(マタイによる福音書第14章18−19節)


主 が 養 う


 私たちが手にしています、新約聖書には、四つの福音書が収められています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ――。それぞれ、個性のある、福音書です。いずれも主イエス・キリストが何をお語りになって、何よりも、主イエス・キリストの十字架の死、というのはどういうものであって、また、主がご復活なさったというのはどのようなものであったのかということを目指して、記されています。それは共通しています。

 しかし、そのほかは、教会に長くお集いの方でも意外に思われる方がいるかもしれませんが、四つの福音書に共通している物語は案外多くはないのです。

 たとえば、主イエスのお生まれになった物語、クリスマスの物語は、マタイとルカしかありません。また、山上の説教は、マタイにしかありません。

 あの有名な、サマリア人の譬えですとか、放蕩息子の譬え、これはルカによる福音書にしかありません。私たちが礼拝の度に祈ります、主の祈りを伝えているのは、マタイとルカだけです。案外、それぞれ共通する物語は多くはないのです。

 けれども、今日ご一緒に聴いた物語、僅かなパン、僅かな魚で養ったという物語は、四つの福音書に共通して出てくる、数少ない物語なのです。

 マタイもマルコもルカもヨハネも、この、僅かなパンで大群衆が養われたという物語を愛しています。そればかりじゃない。マタイとマルコでは、一度記すだけではまだ落ち着かなかったようです。このマタイによる福音書でも、先ほどは第14章を聞きましたけれども、第15章を開けてみますとまた今度は、男だけで四千人、主イエスが同じくパンをもって養われたという奇跡が記されます。

 どうして、この物語がこんなに、福音書の中で愛されているのでしょう――。確かに大きな物語ではあります。たった五つのパンと二匹の魚だけで、「男だけで五千人以上いた」。ですから全部で1万人以上いたということだと思いますけれども、その大群衆が養われた。満腹になったのです。しかも満腹になっただけではない食べ残しさえ生まれた――。これは実に、大きな奇跡です。

 けれども、同時にこれは小さな奇跡と言ってもよいかもしれません。というのは、この日の奇跡はこのときだけでそのあと何にも残らないのです。

 手が動かなかった人が手が動くようになってずぅっと最後までその手が動いたというのではない。食事はわずか、30分、あるいは1時間で終わってしまうに違いありません。1時間もきっとかからなかったかもしれない。10分15分かもしれない。だって、出てきたのはパンと魚だけだったのですから。そして、一日も経たないうちにまたお腹が空いてしまいます。言ってみれば何も残らない、小さな奇跡と言ってもよいかもしれません。

 けれども、特に12人の弟子たちにとってこれは忘れられない出来事だったようです。12人の弟子たちが、あちらの教会こちらの教会に行ってこの日の出来事を話をしたのです。だから、どの福音書にも収められることとなった。何よりも、他の奇跡と違うのは、弟子たちがその奇跡に参加させて頂いたのです。

主イエスがラザロをよみがえらせましたとき弟子たちは何もしませんでした。幼い少女を、よみがえらせたときも弟子たちはそれをただ見るしかありませんでした。けれども、この奇跡は違います。弟子たちが、この奇跡に参加したのです。主イエスはおっしゃいました。

 それをここに持ってきなさい…

 弟子たちは、懐にしていた五つのパンと二匹の魚を主イエスのもとに持って行きます。主イエスはそれを取って、天を仰いで讃美の祈りを唱え、パンを裂いた。そして弟子たちにお渡しになったのです。そして、聖書は記す。

 弟子たちはそのパンを、群衆に与えた。

 弟子たちは、自分の手で、1万人の人びとの中を歩き巡ったのです。そして同じく1万人の中を歩いた。ずっしりと重いパン屑が、その籠の中に一杯になったのです。12弟子たちはその、重さの感触を、腕の中にいつまでも残しながら生きたに違いありません。あの日、この腕で、あのパン屑を、集めて回った――。

 弟子たちはそのパンを群集に与えた――。

 わたしは、このところがやはりどうしても気になるのです。

弟子たちは、そのパンを、群集に与えた――。

 異常な行為です。不可解な行為です。だってそうでしょう 五つのパンと二匹の魚を、それをイエス様のもとへ持っていきます。主イエスがそれをもってらっしゃいというから持って行ったのです。イエス様は、目の前でパンを裂いてくださった。そしてそのパンを、受け取り直しますと、振り返ると、1万人を超える大群衆です。いったいこの、手にしているパンでどうやってその大群衆を養えるというのでしょう。

 もしも、わたしでしたら――イエス様の手にそのパンを差し出すことも、群衆の中を歩み出すことも、戸惑うに違いありません。五つのパンがあればとりあえず、自分たちの空腹を養うことはできるのです。イエス様の手に渡してしまったらば、自分たちの空腹さえ養えなくなるかもしれない。

 群衆の中で配り始めます。もちろん1万人分のパンや魚を一度に手にもてるわけではありません。何度も何度もイエス様のもとへ戻らなくてはならないででしょう。けれど、配り始めると、するともうすぐになくなるのです。皆に笑われるかもしれません。

 “あの弟子たちは何をやってるんだ。バカなことやってるなあ…。俺たちを五つのパンと二匹の魚で養おうとしている。そんなことできるか…!?
 
 みんなが大笑いするかもしれない。何も役に立たない――。弟子たちはそういう意味では、現実的でした。はじめにこう言ったのです。

 ここは人里離れたところでもう時間も経っている。群衆を解散させてください。そうすれば自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。

 こんな大群衆を養えっこない。自分たちが養えっこない…。現実的な判断は一万人解散させて、それぞれ自分で、食べ物を探しに行かせることです。けれど、イエスさまはまことにここで非現実的です。

 あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい。

 わたしは思います。イエス様には、会計担当役員は任せられません。だって、五つのパンと二匹の魚で、1万人以上を養おうとなさるのですから。

 “イエス様、それはいくらあなたであっても無理なご計画ではないですか”と言いたくなります。“そんなこと始めたらあなただけじゃない、私たち、あなたの弟子たちだって笑われるじゃないですか”と言いたくなります。“夢が大きいのはよいですけれども、あなたは少し、何でも物事を大きく言い過ぎではないですか”と言いたくなります。

 けれども、主イエスに従うこの12人の弟子たちは、そのとき、風変わりな決断をするのです。

 ――弟子たちは、そのパンを、群衆に与え始めるのです。

 もしかしたら、無駄遣いにも思えるような、中に、一歩を踏み出すのです。もしかしたら自分たちを笑うかもしれない大群衆の中に“ほら見ろ…。言うことばかりは大きくて何にもできないじゃないか”と言うかもしれない群衆の中に一歩を踏み出してゆくのです。

 けれども、主イエスに従う群れというのは、しばしばそういう風変わりな決断を、不思議な決断を、主イエスに促されてし続けるのです。

 主 イエスは、この教会によってこの街を養おうとしておられるのです。五つのパンと二匹の魚をもって、私たちが手に持っているものを持って、この街の中を歩こうとしておられるのです。

 弟子たちは、主 イエスに促されるようにしてその一万人の群衆の中を歩み始めるのです。おそるおそる――。すると、ほんとうに不思議なことですけれども、パンが増えるのです。増え続けるのです。いったいそれがどうして起こったのかはわかりません。

 ある、ひとは、弟子たちが自分の弁当を表に出して分けはじめるのを見て、自分もこっそり懐に持っていたパンを出して、みんなで分けたんだっていう人がいます。私はなんだかそれは、つまらない解釈だなぁと思います。なるほどそうしたら奇跡の説明はできるかもしれない。けれども、もしもそういうことであるならば聖書にハッキリ書くでしょう。わからない。またわからなくてよいと思います。イエス様は私たちの計算外のことをなさる方です。

 イエス様が、目の前でパンを裂くたびに、また裂いたパンが丸くなりまして、また裂いて、また丸くなってまた裂いたんでしょうか。あるいは、弟子たちがそのパンを受け取って籠の中に入れて回る度に、パンを取ってもまたパンがどんどんどんどん中からわいてきたんでしょうか。わからない。

 そんなこと聖書は関心持たないのです。奇跡の説明をしようとはしない。はっきり書いてあることがあります。それは、弟子たちが三つのことをしたってことです。

 持っていたものを、自分で食べずに、主イエスの手に渡すこと、そして主イエスがそれを祝福して裂くのを目にしながら、もう一度受け取り直すこと。そして、少しの勇気をもって、群衆の中に、大群衆の中におずおずと歩み出して、それを配る――。

 愚かかもしれません。そう――会計係としては、主 イエスよりも、弟子たちのほうがずぅっと適していたかもしれません 主 イエスの愚かさに参加するときに、奇跡が起こるのです。奇跡を目にすることができる。しかも、目にするだけではありません。この腕に、ずっしりとした手ごたえを抱えながら、自分自身が、奇跡を味わることができるのです。奇跡に参加することができる。主イエスはいつでも、私たちを小さな冒険の旅に誘おうとなさる方です。神さまっていうのはそういう方です。

 神はアブラハムに言いました。

 もう、年を重ねて、この土地で、ゆっくりと残された時を過ごせばよいと思っていた、老いたアブラハムに言いました。

 わたしの示す地に行け。そこで、あなたを祝福しよう。

 その当時の、名君ヒゼキヤを失いまして、ほんとうにこころ乱れていた預言者イザヤ。神は言いました。

 だれがわたしの代わりに行くだろうか。
 
 まだ、若くて、自分自身が説得力のある言葉など語ることなどとてもできないと思っていたエレミヤに言いました。

 あなたが行け…

 そして主イエスもまた、弟子たちを集めて、一人ひとりの前にほんの少し足を止めておっしゃるのです。

 わたしについてきなさい。

 そして主イエスは、私たちをいつでも冒険の旅に誘います。愚かにも思えるような旅に誘う。ここにいれば安心だと思っていた。その生活から、おずおずとでも、あえて一歩を踏み出してご覧…!と、私どもを招くのです。そのときに私たちも、奇跡を見ることができます。神の業に参加することができる。

 私たちは今日も、私たちの精いっぱいの献金を致します。その際には、集められた献金のかごを、聖餐台の上に置きます。

 わたしが神学校のとき、礼拝(学)の講義で繰り返し教えられましたことは、

 “この聖餐テーブルは食卓なのだ”ということでした。食卓ですから、聖餐台の上には、パンとぶどう酒だけ、主イエスのお体と血潮だけを置こう、と。それが、“礼拝学としての考えである”と。
 
 献金は別に、専用の献金台があって、そこに置くのです。神学校の礼拝では、聖餐のパンとぶどう酒、そして献金は、それぞれ別に定められたところに置いていたのです。以前、久しぶりに神学校を訪ねましたら、今でもそうでした。それはひとつの形式だと思います。また“なるほど”と思うところがある。

 けれども、いくつかの実習先の教会ではどこも、そのようにはしていなかった。教会の長い伝統から言いますと、献金というのはやはり聖餐台の上に置くものです。どうしてか。そのとき私どもはこう祈るからです。

 私たちは、ここに私たち自身を、感謝と献身のしるしとしてあなたに献げます。

 そして私どもが自分の身体を、精いっぱいの献金に託して献げるときに、主イエスはそれを持って、祝福して裂いてくださいましてもう一度私どもに差し戻してくださいます。ですから、この聖餐テーブルというのは棺の形をしているのです。

 私どもが自分のためだけに生きようと思う命を幾度でも幾度でも、ここで殺していただくのです。主イエスの命に重ねあわせるようにして私どもはここに自分の命を置く――。そしてそれを、主イエスは取りあげて裂いてくださいまして“もう一度生きよ…”と私どもに指し戻してくださるのです。

 ある、“牧師の牧師”のようなアメリカの神学者が、こういうことを書いています。

 牧師は牧会をする。よく羊飼いに譬えられる。牧師は羊飼いとして教会員である羊を養う。それはどうしてか――。羊が、満足するためか。いや、違う。羊飼いはなぜ羊を飼うのか――。神への献げものとするためだ。

 わたしはそれを読んで、慄然としました。けれども、“ああほんとうにその通りだ…”と思いました。

 私たちが主 イエスに従って生きていく。それは、主イエスに私どもの命を用いていただくことを願うことです。神に私どもの小さな人生を用いていただくことを願うことです。私どもの人生が、ほんの少し命が長らえることを願うのではない。健康になることを、ほんの少し健康になることを祈るのではない。私たちは、主イエスに私どもの命を、差し出すのです。それが、私どもの命にとって、最もよい生き方だからです。

 あと、私どもの命は何年残されているか分かりません。若いものであってもそうです。10年20年、あるいは60年70年がほんとうにあっという間に過ぎ去ってしまうことがあるということです。

 けれども、私どもはここに命をささげるのです。
 
 主イエスよ、わたしの命を用いてください…

 自分の命を、12人の仲間内のためだけに用いるだけではありません。一万人の、大群衆の中に私どもの命を用いてくださると主イエスはお約束くださる。

 そして私どもは、主イエスの手に、私どもの命をお預けするのです。主イエスは、それを受け取り、祝福して裂き、私どもにもう一度返してくださいます。そして私たちは、おずおずと、怖れながら、大群衆の中に、一歩を歩み出していくのです。

 弟子たちは、そのパンを、群衆に与えた――。

 そのとき、奇跡が起こるのです。

 祈りを致します。

 天の父、新しい命を授けてくださって、志を、また、主イエスに従い、前に進む思いを、ここで新たにさせてくださることを感謝を致します。小さな命です。自分ですら時に、そのいのちの重さにあえぐほどになってしまいます。しかし、神よ、あなたが、私どもの命を、お用いくださいますように。私どもの財を、健康を、地位を、僅かばかりの才能を、この身体を、あなたがお用いくださいますように。

 主イエス・キリストによって祈ります。