今週の説教

 MENU>>>|TOPページ教会案内今週の説教教会への交通教会学校週 報LINK |

《今週の言葉》

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイ第11章28−29節)


真実の休みを得ていますか


 わたしは柔和で謙遜な者だ、あなたは、わたしに学びなさい。

 主イエスがおっしゃいます。

 柔和なわたしに学びなさい。

 主イエスは、「柔和な人々とはどのような人であるか、ちゃんと理解しなさい」、そうおっしゃいません。あるいは「柔和な人々とはいったいどのような人であるか、知恵を絞ってよぅく考えて御覧なさい」というのでもない。ここで、柔和であることの定義を求めてはおられないのです。主イエスは「学びなさい」とおっしゃいました。わたしに“学べ”。――これは「わたしの弟子になりなさい」ということです。あなたはわたしの弟子になって、わたしに従って、柔和な者として生きて御覧なさい、そのように歩んで御覧なさい”ってことです。

 そう、私たちは皆、一人、ひとり 主イエスの弟子です。その主イエス・キリストに従って生きる限り、私たちは、どこか、柔和に生きるのです。違うでしょうか――。

 《柔和》――。その意味については、いろいろあるでしょう。しかし、この、マタイ福音書第五章の、あの山上の説教で、この言葉は最初に、出てくる。「こころの貧しい人々は幸いである/悲しむ人々は幸いである」ということに続けられた、主イエスの第三の祝福です。

 柔和な人々は幸いである。

 この「柔和な人々」と訳された文字は、さまざまな翻訳ができるようです。たとえばある人は、“忍耐深く生きる人びとは幸いである”。そう訳します。ある、重荷を、痛みを、忍耐しながら生きている人たちのことです。

 あるいは“力づくで生きようとしない人たちは幸いである”。そう――私どもの、毎日の生活の中で、力と力の鬩(せめ)ぎあいの中で生きていますから、それに対して私たちも小さいながら自分の持っている権利や、権力や権威を振り回して行きたくなります。しかしそれをしない。柔和に生きるのです。

 あるいはさらに、こういうふうに訳すひともいる。

 自分が、赦される必要のある人間であることを知っている人びとは、幸いである。

 いずれにしましても、力が渦巻く世界の中で、暴力的とでも言ってよいような世界の中で、その狭間に立ちながら、痛みながら生きている人たちです。権力争いしないで生きている人たちです。自分の中に在る弱さを、痛みを知っている人たちのことです。主イエス・キリストの前に絶えず跪かなければならないことを知っている者たちです。

 主イエスは、御自分の前で跪く私どもに対して

 あなたは幸いだ…

 そう言ってくださる。

 けれども、一方で、私は、主イエスに口答えしたくなります。主イエスに直接質問したくなる。

 「主イエスよ、あなたはそうおっしゃる。けれどもほんとうにそうですか。ほんとうに力を棄てて、私たちはこの世で生きてゆくことはできますか。礼拝堂の中で、あなたの説教を聴くだけなら良いのです。あなたが礼拝堂の中で、私たちを迎えるだけの方であったならいい。けれどもあなたは、礼拝堂の中に磔(はりつけ)にされたままではおられずに、ご復活なさって、私たちよりも先に、「わたしについて来なさい」と言ってこの礼拝堂の外に出てお行きになる。そのあなたについて行くときに、私たちは柔和なままで、優しいままで、自らの罪にいつも跪きながら、そのように生きて行くことで、この日本の社会を生きて行けるのでしょうか――。

 そう思いますのは、一方で私たちは、ほんとうに優しく、やわらかに生きてゆきたいと願っているのです。

 少なくとも、この礼拝堂に集った皆さんはそうでしょう――私たちここにいる者たち誰一人として、人を叱り飛ばして、自分の力で相手を動かそう、それだけでこの世の中を渡って行こうなどという人はいない筈です。主イエスに従うっていうのは、私どもの生き方が変えられてしまうことだからです。だから私たちは、怒鳴ったり、怒ったり、自己主張したり、思わずそのようにしてしまった後で、ほんとうに寂しい思いになります。どうして私たちは、礼拝堂で跪いたそのやわらかい膝そのままで、一週間生きて行くことができないのか。それは、私たちは、力争いの中で生きているからです。
 
 ある人が“民主主義の社会”というのは、“王がいなくなった代わりに、たくさんの小さな王を生み出した”と言っています。どこに王がいるのか――。一人ひとりです。みんな平等な権利がある。それを前提としています。だから、あちらでも、こちらでも、自分の権利と利益を主張する声が渦巻いている。大きな声が聞こえます。尖った刃が突きつけられます。それに対して私たちが無防備に生きることはできない。

 大きな声に負けないように、時には大きな声を出しますし、尖った刃で思いをするならば、その、刃がどれほど人に悲しみを与えるか、こちらも刃を突きつけてやりたくなる。違うでしょうか――。けれども、そうしながら私たちはほんとうに寂しい気持ちになる。

 真生幼稚園でもそうです。幼稚園の子どもたちは素直に神さまのことを信じています。人と人とが赦し合うことがどんなに大切かということを身につけながら育っていきます。けれども一方で、保護者の方々は心配をします。とっても喜びながらも、心配なさる。「こんなに子どもたちが優しく育ってしまって、いったい小学校でやって行けるのでしょうか」と聞かれることさえあるのです。――おかしな、ことかもしれませんけれども、私たちもどこか、そう思ってしまうところがある。
 
 主イエスはなお、不思議なことをお語りになります。

 柔和な人々は幸いである。その人たちは、地を受け継ぐ。

 この色彩にお気づきでしょうか――。柔和な人たちは、苦労した一生を終えて、天国に入るって主イエスはおっしゃったのではないのです。「柔和な人びとこそ、地を受け継ぐのだ」とおっしゃったのです。この世界に、そう、あの世に行って、私たちが報われるというのではない。この、暴力的とも言っていいような社会の中で、柔和に生きる者たちが求められているというのです。そしてその者たちこそがやがて、地を受け継ぐ日が来る と言う。

 人のことを考えながら、生きる。何時もどこか忍耐して、周りから受ける傷を受けながら生きる。こころ痛めて生きる。そのような忍耐の生き方を続ける。そのような者たちこそ地を受け継ぐ! この社会にこの世界に必要だと言うのです。

 ある、人が、こういうことを言っている(桃井和馬氏)。

 「みんな、正義の反対は悪だと思っている。だから、正義に燃えている人たちは、熱烈だし、一生懸命だし、揺るぐところがない。けれどもそれは、自分は間違っていると思う。正義の反対は悪ではない。正義の反対は正義だ…」。

 相手もまた正義の中に在るというのです。もし、どちらも正義であるならば、あとは、いったいどちらの力が強いか。大きな声を出すってことになるでしょう。大きな声を出してこの…勝てそうもない相手であるならば、ギュッとこの…口を閉じて、こころ固く閉じて、無視をするってことでしょう。しかし、そのようにして私たちは、正義と正義がぶつかりあう世界の中に来ている。皆正しいのです。皆要求がある。皆それぞれの、正しさとこの…プロセスを持っているのです。

 しかし、主 イエスが切り拓こうとしていてくださる世界、また切り拓き続けてくださっている世界っていうのはそういう世界じゃない。正義を振りかざして、相手を踏みつける世界ではないのです。
 「わたしは柔和な者だ…」。この、主イエスの御言葉を聞いて、誰もが、こころに留めますことは、ゼカリヤ書の、第9章です。もう、よぅく御存じだと思いますけれども、これも、開いて頂いたら良いかもしれない(旧約の1489頁)。ゼカリヤ書第9章の9節。主イエス・キリストがエルサレムに入られるときに、このゼカリヤ書を歌って民衆たち主イエスを迎えたのです。

 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイ第21章5節、⇒ゼカリヤ第9章9節)

 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。

 不思議な、王です。主イエスはこのとおりエルサレムに入る時に、軍馬に乗らなかった。子驢馬に乗った。小さな、驢馬に、この…大の大人が跨る。それは不思議な姿だったでしょう。普通王というのは、軍馬に乗って入って来るものだからです。しかしこの、驢馬の子に乗った王が、10節以下にこうある。

 わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。

 不思議です。驢馬に乗った、王が、戦車を、また、軍馬を 戦いの弓を絶つというのです。大きなヴィジョンです。

 私たちは、平和をもたらすためには、軍備を、増強しまして、相手の国に脅かされない国をつくらなければいけないという声をたくさん聞く。国の話だけじゃありません。私たちの生き方自体がそうです。戦わなければならない相手がいるならば、平和をもたらさねばならない場所があるならば、自分が、馬鹿にされずに、相手よりも居丈高に出て、自分が握り締めた一点の正義を振りかざして相手を打ちのめさなければならないと思っています。違うでしょうか――。そのようなことを私たちはこの社会から教わって育ち続けたからです。

 けれども主イエスは違った。驢馬の子に乗ったのです。笑われたでしょう。馬鹿にされたでしょう。“なんだあの男は…”。主イエスは、誰ひとり踏みつけようとはなさらない。

 そして、そのお方が、おっしゃるのです。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

 私たちはほんとうに疲れます。重荷を負うでしょう。それは、この、戦いの社会、お互いが傷つけ合いながら生きている限り、尚更のことと思う。けれども、主イエスの御顔を仰ぐときに、本当に休みがあるというのです。主イエス御自身が柔和な方でいらっしゃる。

 主イエスは、大きな声を出されることはありませんでした。もちろん、それはいつでも優しく、イエスマンで生きる。“はい、はい”と言いながら、この…何でも、受け容れて、ノーと言わないで生きるということじゃありません。主イエスも御叱りになりました。実に激しい時もおありになった。けれども、相手の息の根を止めようとしたことは一度もないのです。排除なさろうとしたことはない。

 “わたしは柔和な者だ…”とおっしゃいました。私ども一人ひとりに対してもそうです。私どもの主イエス・キリストは、罰を与えることは決してありません。私たちを、呪われることも決してありません。私たちの不信仰を咎めて、私どもの日々に不幸をお与えになるということも決してありません。それらすべてを、引き受けられたのです。主イエス御自身が、疲れ、破れ、重荷をみんな負ってくださった――。

 聖書が、報告するところによりますと、驢馬に跨って、この、エルサレムに入った主イエス・キリストを、群集みんなが、歓迎しました。やがて、皆がよってたかって主イエスを殺しました。主イエスは、力がない。主イエスは、敵を殺さない。そのことを、皆が耐えられなかったのでしょう。主イエスは裁判の席でじぃっと黙っておられました。口をお開きにならなかった、何故か――。ある人は言います。「主イエスが裁判の席で口をお開きになったら周りの者がひとたまりもなかったからだ」。

 私どもの、主イエスが、十字架の上から、跪く私どもを見て、御叱りになるのならば、私どもを軍馬に乗って踏みつけられるのであるならば、私どもはひとたまりもない。私どもが負うべき傷をすべて負って、黙って、十字架についてくださった。神の大きな柔和、痛みに満ちた柔和に私どもは支えられている。そして、その柔和さがこの地を受け継ぐのです。

 私たちは時々騙されてしまう。二十年三十年でこの…グルグルぐるぐる変わる時代、これがほんとうの現実だと思ってしまいます。しかし、逆かもしれない。この社会は寝ぼけているのです。まだ、力争いをしなければ、この世界の中で生き残れないと思っているのです。主イエスは、二千年、キリスト者を造り続けることで、この世界の歴史を築き続けて来ました。少しずつ、少しずつ、優しさが、人が人を思いやるこころが、相手のことばに耳を傾ける、そのような歩みがこの世界を造るということに、ようやく、この世界は気づき始めている。そうでなければこの世界は、滅びるしかない。地を受け継ぐどころか、地を滅ぼすしかないのです。

 主イエスの、お顔から離れて、また私たち、皆さん、一週間に戻ります。大変なことが多いでしょう。私たちが、悲しむ。こころ貧しくなる。そして柔和に、忍耐しなければならないのは、とんでもないことをされてることじゃありません。愛したいからでしょ? 愛したいんです。私たちを待っている者を愛したい。だから傷つくのです。しかし、そのような愛が、必ず地を受け継ぐ。この世界に最も必要とされているものです。そして私たちは一生、痛み続ける必要はない。来る週毎に、主イエスの御顔を仰ぐことができます。主イエスが、今日も私たちに目を留めてくださって、声をかけてくださいました。

 柔和な人たち、あなたは幸いだ。あなたの生き方は間違っていない… あなたは、地を受け継ぐ

 祈りましょう。

 声を、荒げ、荒げる勇気がなければ、冷酷な心に、立て籠もり、私共が、どれほど自分を失ってしまうことでしょう。もう一度、愛に生かしてください。私たちを待っている者たちがいます。主イエスと共に負うべき小さな重荷があります。愛の、重荷があります。しかしどうぞ、せめてこの一週間だけは、私たちがそれを静かに負うことができますように。ここに居る、一人ひとりのことを、誰よりも天の父よ、あなたが御存じでいてくださいます。愛の、使者として、赦しの、使者として、私どもを、お遣わしくださいますように。

 主イエス・キリストによって祈ります。